時はまさに高度成長の時代…東海道新幹線が開通し“よんさんとお”と呼ばれる昭和43年10月(1968年)のダイヤ大改正を経て大きく様変わりしてゆく在来線でした。
それでも東京駅ではなおもEF58が牽引する九州方面への長距離急行列車の「雲仙」「西海」「桜島」「高千穂」など10系客車や旧型客車が発着し、
113系や80系の湘南電車に混じって153系「なにわ」、157系「あまぎ」が頑張っていた頃なのです。
因みにこの頃は「瀬戸」、「出雲」はまだ急行でした。東京〜大阪の運賃は1730円。…今だと東京から熱海にさえたどり着かない金額でしたし、交通公社、弘済会の大版時刻表は
180円でした。物流においても鉄道輸送が一般的な時代でホームの端では荷物車からおろした荷物を方面別に仕分る威勢のいい声が聞こえ、本線上はEF10をはじめEF13、EF15、
EF60,61そしてEH10が頻繁に長大編成の貨車を従えて行き交い、操車場ではいつも突放による入換作業がおこなわれ機関車の発する短音2回の汽笛が周囲をさらに活気づけていたのです。
そしてちょっと郊外に目をやれば気動車やDLが蒸気機関車と共存し、上野ではEF56,EF57が頑張っていました。
一枚ずつ硬券に日付をスタンプしていた出札窓口、改札での入鋏、手荷物一時預かり、駅弁の立売り、
けたたましい発車ベル。腕木式信号機、タブレット、手動の転轍機群、ハエタタキと呼ばれた通信線、通信柱などなど今ではほとんど見ることが出来なくなった
風景や設備ですが、まだまだそれが日常の情景だったのです。国鉄が打ち出した近代化・無煙化計画によってピークにはおよそ6千両を数えた蒸気機関車はその数を急激に減らし、
その3割が残るころでありましたが機関区を抱える駅周辺では絶えず煤煙が立ちこめ独特の臭いに包まれていました。しかし、それが鉄道の町として発展の象徴であり、
そこに暮らす人々の誇りでもあったのです。駅待合室には行商のおばさん達がその大きな荷物をおろして談話する光景があり、絶えることなく常に人の出入りがある…そんな駅の風景をよく目
にしたものです。
蒸気機関車の牽く列車に乗って旅をすれば煤が目に入って涙を流し、夏の汗ばんだ肌や髪の毛の中、それのみにとどまらず鼻や耳の穴の奥まで真っ黒け。
旧型客車の窓には鎧戸状の木製日避けとガラス窓の間に煤煙避けの網戸が付いていましたが、列車がトンネルに入ると、慌ててみな一斉に窓を閉めるものの、ベンチレータからは勿論のこと、
開きっぱなしの客室ドアなど隙間だらけの客車には容赦なく煙が進入してくる始末。そして、たちまち車内に充満し、天井のグローブ電球の室内灯さえ薄暗く鈍く見え、窓ガラスは蒸気の熱気
で曇り、乗客は口にハンカチをあててただひたすらトンネルを抜けるのを無言で耐える。賑わっていた車内もその時だけは静まりかえり、ジョイント音だけの重苦しい空気が漂うのです。
長い急勾配にトンネルが連続し…と機関士や機関助手の苦闘の物語がありますが、乗客も例外ではなく機関車と乗務員の苦闘の一部を共有しながらの旅だったわけです。
完璧に空調され、車輌によっては窓も開かない今の旅では考えられない世界でしたが、それがまた旅情を生んでいたのかもしれません。当然、旧型国電とか旧型客車なんていう呼び方など存在せず、
当時は国電、客車といえば今いうところの旧型、それそのものだったのです。すでに101系(90系)や153系(91系)以降のカルダン駆動電車は登場していたので新性能電車として
それまでの電車との区別は存在していたかもしれません。蒸気機関車の全廃。モータリゼーションによる物流の変化。コンピュータ[マルス]の開発によって発券システムは機械化され、
国鉄民営化とそれに伴う大規模な路線廃止と余剰車の廃車。新幹線網の充実などで完全に様変わりした鉄道の世界。 まだ半世紀にも満たない…そんな昭和40年代の鉄道風景を写真ツアーでお楽しみください。